
| 黒い花びらの散る |
| 「革命は愛である。愛もまた、革命である。」 (「宋家の三姉妹」より) この言葉を、全ての悩める人たちと、愛する人たちに捧げる。暗く長いトンネルは続くも、我々は生きなければならない。それが何よりも陰惨な物語で、小説よりも奇なりと言われるゆえんである。 一、花の散る 花びらが一片、風に舞って散り落ちた。梅雨が明けて、夏が始った。その日は蒸し暑かった。俊介は友人から一本の電話を受けて、呼び出された。休日。昼過ぎまで寝ていようという思惑は打ち砕かれたが、出かけるのも悪くはないと思い直した。 階下に降りて洗顔を済ませると、食卓についた。珍しく一家揃っての食事だったが、会話はほとんどなかった。表情を一つも変えないまま、目の前に用意された物を流し込んだ。味はしなかった。 「ごちそうさま」 うめくように言って、俊介は出かける支度を整えた。 「でかけるの?」 母の問いかけに、「ああ」と聞こえないほどの声で応え、逃げるようにして家を出た。 蝉の声がうるさかった。 二、蝉 蝉の歌は、俊介の耳を占拠していた。地面からは蒸気が立ち上っていて、身体を這い上がっていた。降り注ぐ熱気と照り付ける日の光が、皮膚を刺した。 約束の場所に、まだ人はいなかった。いつもの場所、駅前の広場。友人との約束は、大概それで済まされた。時間はまだあった。 そこには蝉の声は届かなかった。目の前を行き交う人の群れと、纏わりつく熱気の中で、俊介は立ち竦んでいた。何も考えなかった。ただ呆然と立ち尽くしていた。 彼はやって来た。幸成はやって来た。仲間と飲む前に会わないかという話だった。時間どおりだった。幸成は明るかった。ただ輝く太陽のごとくに、笑顔で。 「いつものところ、行くか」 幸成は言った。二人はいつもの喫茶店に入った。窓際の席。それもいつもの場所だった。窓から見える花屋に、俊介は黒い花を見つけた。 三、黒い花 黒い花が気になっていた。誰もそれに気づこうとはしなかった。 「どうした?」 と幸成は訊いた。 「いや、別に」 黒い花の話はしなかった。時は速やかに流れ去った。幸成との時間は大抵そうだった。再び例の場所に戻って、仲間を待った。大学時代の仲間だった。 居酒屋に落ち着くと、そこで誰某が結婚したという話を聞いた。途端にそこは、結婚発表の場…になるはずだった。だがそれに関心を示す者はなかった。まるで示し合わせたかのように、誰もそれ以上は尋ねなかった。俊介も何も言わなかった。すぐに他の話題が取って代わった。大して年端も変わらない最近の若い者の話で盛り上がった。 俊介の目の前を虫が通った。何気なく手を翳すと、すっとごく自然に、その虫は俊介の手の内に入った。手を開くと、その虫は死んでいた。 四、羽虫 虫が潰れた痕が、俊介の手に残った。時折、それが気になってこすってみたが、無駄だった。呑むこと一頻り、お開きとなって、町角で別れ際のあいさつを交わしていた。その時だった。 「俊介さん!」 大きな通りの向こうから、大きな声で俊介を呼ぶ声がした。暗がりの中で、俊介は横断歩道の向こうに、手を振る男を発見した。後輩の達弥だった。 信号が変わるのを確認すると、達弥は走ってこちらに向かった。駆け出した途端、ものすごい勢いで車が右折した。達弥は宙を舞った。そして地に落ちた。動かなかった。俊介も動かなかった。 我に返って、達弥に駆け寄った。彼は動かなかった。その身体の辺りには、黒い花びらが散らばっていた。 五、花びら 花びらの散々たる様が、脳裏に焼き付いていた。人の命の上に散った、あの黒い花びらが、俊介の目の前に覆う肌に、今も重なっていた。綾乃に会うのは五年ぶりだった。二人は達弥の通夜で再会した。その足で、何の気なしに肌を重ねた。言葉もなく、ただ惹かれ合った。居た堪れない気持ちで、お互いに、貪るようにして。 暗がりで、綾乃の口から漏れた吐息が、俊介の顔を撫でた。俊介は彼女の首筋に接吻した。そのまま唇は乳房に触れた。乳首を噛んだ。思い切り強く。そして胸元に顔を埋めた。背中に回していた手が、彼女の背筋を這った。内腿を辿り、陰部に触れると、そっと指を入れた。綾乃の口から大きく吐息が漏れた。彼女指が俊介の肩に触れて、彼を求めた。随分長い間、抱き合っていた。二人の身体が汗ばんで、絡み合った。 零れる月の光だけが、二人を見守っていた。 六、月夜 翌朝、揃って葬儀に参列した。二人の身体からは、月明かりが漏れているようだった。その後、俊介は一人で駅に向かった。ビルに埋もれた白塗りの時計台の前で足を止めた。大きな時計は正午を示していた。しばらくそれを眺めて、再び駅に向かった。そしてバスの待合室のベンチに腰掛け、煙草に火をつけた。 隣に腰掛けていた三十絡みの品の良い男が、時間を尋ねて来た。直感で、口実だ、と俊介は思った。少しの間、話をした。それから男が滞在しているというホテルに行った。ホテルの最上階のバーで酒を飲んだ。浴びるほどに。 気がつくと、男はいなかった。置き手紙と、札が数枚、ベッドの側のテーブルの上に無造作に置かれてあった。空ろなまま、シャワーを浴びた。部屋を出たところにあった花に、目が止まった。花びらが一片、ひらりと散り落ちた。 七、散りゆく それから数日、俊介は一片の花びらに苛まれた。喫茶店から見えていた黒い花の花びら。達弥の辺りに散乱していた花びら。ホテルの廊下でふと落ちた花びら。それらは全て、俊介の中で散ってしまった。そしてそれらが、何事かを暗示しているように思われた。 恋愛に別れはつきものだが、友情に別れはない。そう言った幸成の言葉が浮かんだ。だが、彼に存在しているものとは逆のように思われた。彼に存在しているのは、恋愛に別れなし、友情に価値なし。 幸成に、俊介は言ったことがあった。選べないのがお前の罪だ、と。だがそれは間違いだった。選べないのではない、彼は選んでいる。彼の罪は、選べないフリをしているところにある。 俊介の中では、幸成との友情も散りかけていた。そして浄化されないその魂だけが、亡霊として残った。 八、亡霊 亡霊たちは、彷徨い始めた。その日、家に帰ると、両親が揃って話があると俊介を呼び出した。事業を営む父の、その後を継げ、というのが話の内容だった。母は隣で、黙って聞いていた。父はそれが自分の夢だと語った。吐き気がした。 父は横暴だった。彼の体裁のために、アルバイトさえ制限されたこともあった。恋を阻まれたこともあった。結婚を強要されたこともあった。この家にいる時、俊介は意志を持ったオイデプスだった。父に逆らい、血の不幸に抗い、謀反を繰り返して家を裏切り続けた俊介に渡された、最後の引導だった。父の後を継げという一言は、俊介を狂わせようとしていた。限界だった。全てから逃れていた現実に気がついて、気分が悪くなった。 短い夏が終わろうとしていた。庭の葉が、枯れ落ちたがっていた。 九、枯れ葉 気の早い葉が、一片落ちた。俊介は幸成の家に向かっていた。彼のアパート近くの庭で、庭師が腐って枯れた木を処分していた。 「どうした?」 幸成は訊いた。彼のその台詞は、年中行事だった。少し躊躇って後、俊介は口を開いた。家族との……特に父との確執のことは、彼も知っていた。が、男とも床を共にして来たという事実を、彼は知らなかった。全て話した。幸成の瞳に、俊介は映っていなかった。結局、幸成を試したかっただけなのかもしれない、と俊介は思った。そして、その思惑は見事に外れてしまった。幸成はその事実を受けて、自分には無理だと呟いた。 「俺には無理だ」 彼は三度、同じ台詞を繰り返した。俊介は、幸成に大きな壁を作っていた。二度とは崩れそうになかった。 心の中で、黒い花が咲き乱れていた。 十、黒い花びらの散る その夜、浅い眠りの中で、俊介は黒い花が一面に咲いている深い森の中にいた。黒い花びらが、音も立てずに一片一片、落ちていた。その静かで切ない空間の中で、俊介は虚ろだった。虚ろな胸の内に、泡のようにぽつりぽつりと沸いては消える思いが遭った。その思いは止めど無く溢れた……。 僕は綾乃を愛していた。 花びらが一片落ちた。 僕は幸成を愛していた。 花びらがまた落ちた。 僕は、達弥を愛していた。 花びらがたくさん、飛び散った。 僕は、家族を、父を、愛していた。 花びらが全て落ちて果てた。 僕は……。 落ちた花びらが風に舞った。 僕は、ただ愛されたかった……。 舞い散る黒い花びらが、俊介に降り注いだ。俊介の頬を、涙が落ちた。 |
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